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リストマーク 函館元町の旧相馬邸が国の重要文化財に指定された 

2018年12月28日 ()
1812281.jpg・「旧相馬家住宅」が国の重要文化財に指定されました
 夏の函館旅行の折、落合治彦さんと東出伸司さんにご案内いただいた旧相馬邸、当時はまだ申請の行方はどうなるかといった様子だったが、国の重要文化財に指定されたという広報が12月25日に出ていた。訪問したのが9月2日でその4日後に北海道胆振東部地震が起きたので被害のほどが心配されたが、大きなダメージは受けなかったということだ。[写真は函館市のサイトより]
 →旧相馬邸公式ページ
[2018.12.28(Fri) 12:43] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 2018年夏の城巡り 

2018年09月08日 ()
1809041.jpg昨年『北海道道南の陣屋と台場』を作ったこともあり、お世話になったみなさんに会いに夏休みを利用して11年ぶりに函館へ行ってきた。
この間、変わらず元気な方もいれば、病気をされた方もいた。そのような方も復活していて会うことができたのは幸いだった。次の10年はどうだろうか。

食べに行きたいところ、挨拶しに行きたかったところはまだまだあるのだが、3日ではとても回りきれない。

8月31日 成田→函館→五稜郭→昼食:津軽そばかね久山田→市立函館博物館
     →元町→弁天町→どっく周辺→弁天台場跡
9月 1日 函館駅→道南いさりび鉄道→木古内駅→お迎え車→松前道の駅
     →松前城資料館→国鉄松前線トンネル出口跡→立石野砲台跡
     →道の駅→唐津内の波消しと北海道最古のコンクリート
     →福島町の伊能忠敬測量開始の地→旧福山街道→砂金採り場
     →トロッコ鉄道→中野館跡→木古内駅→函館駅
9月 2日 函館駅→道南いさりび鉄道→清川口駅→元町・旧相馬邸→弁天町
     →ミートハウス→昼食:大国屋→夕食:いか清→ラッキーピエロ
9月 3日 函館→成田

台風21号上陸の前日、ゴトゴト揺れる飛行機で戻ってきてやれやれと思った矢先、その3日後に北海道胆振東部地震が起きるとは、、、。知人の安否、被災状況など確認中だが、まだ連絡がつかない方もいて心配だ。

1809081.png五稜郭の石垣(一の橋の正面)が崩落したというニュースが届いた。右は8月31日に撮った写真。印のあたりが崩落したと思われる。
 →特別史跡五稜郭跡の石垣崩落について
[2018.09.08(Sat) 12:07] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 丸山城(刈谷市東境町丸山) 

2018年06月17日 ()
1806051.jpg先々週、大学の研究室の37年ぶりの同窓会に大阪へ行った帰り、名古屋で途中下車して三味線の先生を刈谷市へ訪ねた。その直前に近くにある丸山城(別名:境城、人夫城)をチラ見してきた。何も調べずに行ったので、ちえぞーさんのページへのリンクを張っておきます。
 →ちえぞー!城行こまい>愛知県のお城>西三河のお城>刈谷市>丸山城
[2018.06.17(Sun) 22:30] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 2017年夏の城巡り 

2017年11月01日 ()
2ヶ月も前の話になるが、夏休み旅行で福岡へ行ってきた。

9月1日 茨城空港から福岡空港、その足で太宰府へ。資料館→政庁跡(都府楼)→戒壇院跡→観世音寺→太宰府天満宮→九州国立博物館→福岡天神のホテル。今日はお城はなし。

1710241.jpg9月2日 天神バスターミナル→唐津→唐津城→名護屋城→呼子経由で唐津→天神。
[写真は名護屋城本丸から対馬海峡を望む]

9月3日 福岡城→レンタサイクルで須崎台場→福岡、中洲、博多をブラブラ。

9月4日 雨の柳川川下り→夜明茶屋→柳川城→福岡天神→福岡空港→茨城空港→帰宅
[2017.11.01(Wed) 00:00] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 猛暑日の新発田城 

2016年09月07日 ()
1609031.jpg今年の夏休みは新潟。見て回るのはどこでも良かったのだが、まずは佐渡へ渡り1泊2日でひと周りして、新潟へ戻った。佐渡では中世城は見る時間が無く、お城的なものとしては相川の奉行所のみ。

1609051.jpg佐渡から戻った翌日は新発田城。36度の猛暑予報が出ているので、お城をちらっと見たらデン着いて戻ろうということで出発した。新潟から新発田までは走りやすい道で1時間弱。駐車場は暑かったのだが、城門前の林に入ると涼しい風が流れている。シルバーの解説員さんと新発田城、堀部安兵衛について40分近く話をして城址公園を一巡り。

1609052.jpgこれだけで帰っても良かったのだが、心配したほどには暑くないので折りたたみ自転車を展開して街中散策へ出発。昼食を終えて、足軽屋敷を見て、隣の清水園を一巡りして駐車場からもっとも遠い地点へ差し掛かった時、ヨメさんのタイヤから空気が抜けた。近くにあった自転車店で見てもらったところ単純なパンクではなく修理不能なので、散策はここで終了。それでも、予定の場所はだいたい回った後でのアクシデントだったのはさいわいだった。
[2016.09.07(Wed) 12:32] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 2014年の夏休み 天童-東根-尾花沢-山形-上山-米沢 山形縦断旅行 

2014年09月19日 ()
今年の夏休みは8月29日から9月2日までの5日間。久しぶりに台風や豪雨にたたられない休暇になった。

8月29日(金)
朝の肌寒い空気の中自宅を出発、常磐道-磐越道-東北道を一路仙台へ向かう。仙台を降りて、広瀬川と仙山線に沿って国道48号線を西へ向かう。

1408291.jpgニッカウヰスキー仙台工場 2009年8月末に余市旅行の折ニッカ余市工場を見学した事があった。今回は時間が無いのでショップを覗いただけ。

1408292.jpg関山の大滝 仙台から天童へ向かう国道48号線が東根市に入ってしばらく走ったところにあるドライブインの裏から降りて行く。夏は水遊びに格好の場所になるだろう。

1408293.jpg旧東村山郡役所資料館 江差の旧檜山郡役所を思い出すような明治初期の洋風建築。1972年まで天童町役場としても使われていたらしい。

1408294.jpg天童城 資料館裏山が中世の天童城。館長さんにはけっこうきついよと言われたが、資料館の南側の散策路から登り始める。1408295.jpg現在は中段が人間将棋会場(右写真)として有名な舞鶴公園となっている。中世の天童城主郭はそこからさらに山登り。天気予報では涼しいはずだったのだが、暑い暑い。普段の運動不足が祟って下りて来る頃にはヘロヘロ。1408296.jpg北を見渡せる展望台から、これから向かう東根方向を遠望する。

1408297.jpg土浦藩陣屋推定地 館長さんもはっきりここという場所は分からないようだった。北目交差点周辺ということなので、出羽桜酒造付近という事にしておく。

1408298.jpg織田藩天童陣屋 近世を通じて織田信長の子孫が天童藩を治めた時の陣屋跡。

1408299.jpg東根の友人宅でおいしい地酒とお料理をいただく。帰りしなガレージの屋根に登り空を眺める。次ぎにくる時にはここに素敵な観測小屋ができているはずだ。

今夜はさくらんぼ東根駅近くに泊まり。

8月30日(土)
1408300.jpg朝飯前の散歩で奥羽本線と山形新幹線のさくらんぼ東根駅周辺を歩いた。ホテルと駅の間を南北に貫く道が旧羽州街道。1本残された松だけが昔を忍ぶ縁(よすが)。

1408303.jpg東根城 村山地方の戦国領主たちは最上氏に滅ぼされて行くが、ここ東根城もそう。現在は東根小学校と周辺の住宅地のところどころに城郭の名残りが見られる。
1408301.jpg小学校敷地には樹齢約500年、幹周16.3mの日本一の大ケヤキが残っている。戦国の攻防をその肌で体験して来た生き物なんだな。
1408302.jpg城内旧三の丸にある東の杜資料館は長谷堂城主志村氏の子孫が興した酒蔵「東養老」の跡地。

1408304.jpg長瀞城 近世の長瀞藩陣屋跡はいまでも水堀が方形にきれいに残っている。

1408305.jpgあらきそば 山形のそばはざるではなく板に乗って出て来る「板そば」。ここは人気の田舎そば屋で県外ナンバーもたくさん停まっている。写真はうす盛り。確かに板の底が見えるくらいに疎らに薄く盛られている。、、、が、三分の一ほど食べた時におかしいぞと感じた。ここのそばは太くしっかりしていて、のどごしを楽しむのではなくしっかり咬むタイプ。ここまで食べただけでけっこうお腹に溜まって来た。後から来た隣の体格の良いおにいちゃん、むかし盛り(大盛り)を注文したらおばちゃんに「量が多いからだやめとき」「いや食べられる」としばらくの押し問答の末お互いに中間で手を打っていた。

1408306.jpg最上川三難所舟下り 最上川の碁点(山形新幹線村山駅の西方)から舟に乗り、碁点-三ケ瀬-隼の難所を巡る。下りたところから乗り場までは送迎バスで戻ってくれる。途中橋の上から見る最上川はけっこう岩場や洲が目立つ。舟はどこをすり抜けて来たのかとも思うが、そう言えば舟底がごんごん当っている場所もあった。

1408307.jpg銀山温泉 夜になるとガス灯が灯り、レトロな風情が人気の温泉郷。1408308.jpg時間がまだ早いので温泉を抜けて裏山へ向かう。と、ここでデジカメCanon PowerShot S100が壊れた。2年前の夏休みの再現だ。しかし、iPod touchがあるので助かった。滝と川を楽しみ、夏しらずから吹き出す冷風で涼を採り、白銀公園の上の旧坑道を抜けさらに登ると銀鉱発見者、儀賀市郎左衛門の像のある頂上に着く。下りて来た頃にはまたもやヘトヘト。1408309.jpgガス灯が灯り始める中、温泉街を後にした。

ひつじや 自家生産の羊肉を食べさせてくれるジンギスカンのお店。

今夜もさくらんぼ東根駅近くに泊まり。

8月31日(日)
1408311.jpg山寺 芭蕉の「閑さや岩にしみいる蝉の声」で有名な立石寺。山寺芭蕉記念館の無料駐車場に停めたので目的地は対岸のあの崖の上。しかし、思ったほど遠くはなかった。
1408312.jpg麓から30分ほどの階段上りで奥の院に到着。日曜日と言うこともあってか観光客で賑わっている。
1408313.jpg奥の院のすぐ下にある華蔵院からは、上って来た堂宇の瓦屋根と南方向の山村が遠望できる。

1408314.jpg旧山寺ホテル 山寺駅の正面にある老舗ホテルだが、2007年に営業を終えて現在は奥様が建物の管理と資料展示を行っている。ほっこりとしたやさしい話し方だったが、三分の一くらいしか理解できなかった。

1408315.jpg上山城 市立郷土資料館になっているようだが展示は見ず(工事中だったかもしれない)、隣の月岡公園を歩く。寛永5年(1628)に下総国相馬藩から土岐頼行が入封、延宝6年(1678)から元禄5年(1692)まで土岐頼殷が城主を務めその後越前国野岡へ転封になったとある。こんなところにも土岐氏の足跡があったのか。

今夜は少し戻って山形泊。

9月01日(月)
1409011.jpg山形城 2009年10月に来たときからまた少し整備が進んでいた。本丸一文字門大手橋のパノラマ。復元のために古写真の提供を呼びかける立て看板も立っていた。

1409012.jpg米沢城

1409013.jpg上杉伯爵邸 昼の時間帯には2000円のランチを提供してくれる。1409014.jpgディナーに比べると破格な値段。

今夜は宇都宮泊。

9月02日(火)
1409021.jpg宇都宮駅の西を流れる田川。

1409022.jpg旧篠原家住宅 江戸時代末期から醤油醸造業や肥料商を営んで来た商家。米軍の空襲で主屋と蔵3棟を残して消失したため商売を畳んだらしい。1964年旧奥州街道拡幅のため約7m曳家したという。

1409023.jpg宇都宮城 エレベータで土塁へ上る城は初めて。
[2014.09.19(Fri) 21:39] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 2013年の夏休み 門司-下関-小倉旅行 

2013年10月07日 ()
今年の夏休みは8月30日から9月3日までの5日間、台風15号の接近や停滞前線の雨に見舞われながら門司-下関-小倉を回って来た。

予習・復習に使わせてもらったサイト:
 →幕末維新の現場を歩く
 →幕末歴史 攘夷から開国へ転換(二)元治元年(1864)年四国連合艦隊下関砲撃事件
 →山口県 維新を辿る道「維新史回廊」

8月30日(金)
1308301.jpg猛暑の茨城空港から雨の神戸空港へ順調な飛行。
日中は三宮や元町を散策するつもりだったが、雨のために予定を縮小。おまけにずぶ濡れで辿り着いた神戸市立博物館は展示替え休館のためフランシスコ・ザビエル肖像を見られずガッカリ。

1308302.jpg元町の旧外国人居留区を少し歩いて南京町で軽食を食べ船内で食べる夕食を購入。
阪神御影駅近くの百円ローソン前から六甲アイランドの阪九フェリー乗り場へ無料バスで移動。
フェリーは神戸港を定刻20:00出港。
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8月31日(土)
朝の08:30に新門司港着。台風15号接近のため滝の様な豪雨。
無料バスで門司駅へ。雨脚は若干落ち着いた。
1308311.jpg門司駅西口の門司麦酒煉瓦館を見学。かつての桜麦酒本社跡。

JR 鹿児島本線で門司港駅へ移動。
1308312.jpg駅近くの観光案内所と関門海峡ミュージアムで門司のお勉強。
元祖門司駅は現在の門司港駅で、関門トンネル開通で門司駅は大里へ移り現在の門司駅になったらしい(ややこしい)。だからレトロな町並みはこちらの門司港駅周辺に多い印象。
出光佐三をモデルにした百田尚樹の『海賊と呼ばれた男』が話題なので出光美術館を見たかったが、ここも展示替え休館とは残念。
門司港周辺のレトロエリアを散策。
鹿児島本線の廃線区間を利用したトロッコ列車に乗って関門海峡めかり駅へ移動。歩いて関門橋の下へ。
1308313.pngここに関門トンネル人道の入り口がある。
ここから下関側へ歩いて400m。対岸は壇ノ浦。壇ノ浦砲台はあの辺りか。
エレベーターで降りる。トンネル内はランニングをしている人が引きも切らず。トンネル入り口には各人のスポーツドリンクや手荷物がいっぱい置かれている。
1308314.jpgトンネルを上がると目の前は御裳川公園。壇ノ浦古戦場と壇ノ浦砲台の史跡。大砲レプリカが並ぶ。ただし、本来の場所はレプリカの並ぶ所ではなく、実際はその山側の一段高まった平場辺りらしい。この話は次の日に長府博物館で聞いたのだが、当時の大砲の性能を考えればこんな低い位置では使い物にならないと思ったので、やはりと納得できた。
バスで唐戸へ移動。
1308315.jpg目の前の亀山八幡宮は亀山砲台跡。
八幡宮裏の長州屋台村は雨のためお休みか。
唐戸市場内の回転寿しで夕食。
足が棒になっているにもかかわらず、唐戸から下関駅近くの宿泊予定のホテルまで歩いてしまう。
東横イン下関駅東口チェックイン。

9月01日(日)
1309011.jpg朝からかなりの雨。
天気が良ければレンタサイクルで遠出と思っていたが、無理なのでバスの1日フリー乗車券を購入。
有名な前田砲台は帰りに寄ることにして、まずは城下町長府まで移動。

1309012.jpg下関市立長府博物館へ向う途中、壇具川沿いの道の落ち着いた佇まいに格式の高さを感じる。下関郊外の高級住宅街といったところか。
蛍泉庭の奥の住宅の軒先にある「御影の井」に立ち寄る。大屋さんらしき上品なご婦人が雨降りにも係わらず丁寧に説明をしてくれる。

この地は長門の国府だったらしい。発掘中のエリアや予定地あり。
博物館は毛利家の遺品や坂本龍馬、高杉晋作とその周辺で援助した人たちに関する品々を中心に展示されている。
前田砲台の写真に関する質問に応えてくださったT学芸員さんからは、その他の台場のさらに詳しい情報をいただけた。これだけでも下関へ来た甲斐があった。
土砂降りの中、カッパを来て傘をさして城下町長府バス停まで戻る。気分は心地よい。
1309013.jpgバスに乗って市立美術館前で降りる。
美術館へ行こうかと思ったが、歩道橋の上から串崎城が近くに見えたので急遽予定を変更する。
串崎城は大内氏の重臣内藤隆春が築城。頂上には石垣の天守台があるが近年のもののように見える。幕末にはここにも大砲を据えたらしい。

昼食を食べてバスで移動。前田で下車。
1309014.jpg前田砲台 低台場 四国艦隊に占領された前田砲台の古写真は有名だが、それはこの低台場。


1309015.jpg前田砲台 低台場から高台場を臨む。現在は関西電力の宿舎が建っているところが高台場。

 →山口県のページ「維新史回廊トピックス<Vol.4>」がたいへん詳しい。

前田から乗車、唐戸の手前、赤間神社で降りる。
1309016.jpg目の前の料亭春帆楼は日清講和条約(下関条約)締結の地。当時の建物は消失している。また、ふぐ料理解禁となった公許第一号店でもあるらしい。李鴻章が安全に講和会議会場の春帆楼まで来るために通った径が台地辺縁に残り「李鴻章道」と呼ばれている。李鴻章道を行くと藤原義江記念館まで行ける。中には入らなかった。この辺りの台地辺縁の小道は大洗の雰囲気そっくり。
台地を降りて春帆楼へ戻る手前に坂本龍馬がお龍と暮らした下関での寓居本陣伊藤助太夫邸跡がある。
赤間神社をちらっと見て、バスで下関駅まで移動。
ホテルまで歩いて戻る。

9月02日(月)
朝飯前にホテルのレンタサイクルで現在は寺になっている唐戸の二つの台場を回る。
1309021.jpg永福寺砲台

1309022.jpg専念寺砲台

朝食後、再びレンタサイクルで下関の北西側を回る。
1309023.jpg奇兵隊決起の白石正一郎邸跡、高杉晋作終焉の地[左写真]、奇兵隊初襲撃の地、小倉城から分捕った厳島神社の大太鼓

1309024.jpg奇兵隊が立て籠った了円寺と本堂の刀傷[左写真]、靖国神社のルーツ招魂場のある桜山神社などを見て回る。
ホテルへ戻ってシャワーを浴びてチェックアウト。

下関駅から小倉までJRで関門トンネルを通って移動。
小倉駅で阪九フェリーのバス乗り場を確認後、小倉城へ向かう。
1309025.jpg途中、小倉駅付近から常磐橋まではアーケードになっている門司往還を歩く。常磐橋[左写真]からは長崎街道に沿って歩くが、雨がかなり降って来る。

1309026.jpg思永中学校西側の三の丸の残存土塁を見る。
中学校の南側を回って勝山公園内の小倉城天守へ。

1309027.jpgこの天守は1959年の再建時にもともと無かった唐破風や千鳥破風を付け加えた復興天守。
天守、庭園、松本清張記念館を見学。

清張記念館を出ると土砂降り。
小倉駅へ向かう途中でずぶ濡れ。
駅ビルのベンチで途中で買った豚まんを食べて一休み。
無料送迎バスでフェリー乗り場へ移動。
1309031.jpgフェリーは定刻に出港。
右写真は雨の中をサンダルで歩き回ったこの4日間の戦いの跡。
夕食は船内レストランで。かつて船のレストランというのはろくでもない思い出しか無いが、近頃は格段に改善されていることに驚いた。

9月03日(火)
朝食も船内レストランで。
07:20若干遅れて神戸港に着岸。
1309032.jpg阪神御影駅から元町へ移動。今回の旅行で混雑を経験したのはこの区間だけ。平日の通勤時間帯だからこれくらいはしかたがない。
元町から再び旧外国人居留区を通ってポートライナーの貿易センター駅まで歩く。
ポートライナーで神戸空港へ移動。
讃岐うどんで腹ごしらえ。
定刻よりも5分ほど遅れて神戸空港を離陸。

1309033.jpg茨城空港上空では積乱雲のため降下の途中で着陸をやり直す。後日、飛行機好きに「いいなぁ、ゴーアラウンド。僕、経験無いですよ」と羨ましがられる。
予定よりも20分ほど遅れて茨城空港に到着。

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[2013.10.07(Mon) 19:41] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 2013年のお城始め 

2013年01月02日 ()
この年末年始も仕事の途切れることは無かったが、その隙間を縫ってお城始めに行って来た。

■小金城
1301021.jpg障子堀 小金城の障子堀、畝堀と言えばけっこう有名なのに、こんなに埋もれさせてしまっていては城趾公園整備として失格だな。

1301022.jpg畝堀 畝は、、、見えない。

■国府台城
1301023.jpg古墳を利用した土塁 過去の公園整備過程で改変されたのか、城郭遺構としてのまとまりが全く分からない。

1301024.jpg江戸川の向こうにスカイツリーが眺められる。

■矢切の渡し
1301028.jpg正月なので多くの人がやってきている。

1301025.jpg新葛飾橋の渋滞を眺めながら、帝釈天へ行くならこちら側に車を停めて矢切の渡しで柴又へ渡るのが賢明に思えた。

■国分城
1301026.jpg古代の下総国分寺のあった舌状台地は戦国時代には国分氏の本城となっていたらしい。佐原の領主国分氏の本願の地でもある。

1301027.jpg現在、台地上は住宅地となりわずかに残る巨大な土塁が往時を偲ばせる。
[2013.01.02(Wed) 21:13] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(6) 見る▼
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COMMENT

「国府台城の謎」の件で by 松戸@住人
第一次国府台合戦(相模台の合戦)に興味を持っているものです。宜しくお願いします。
 さて、時々「相模台の合戦」について調べていると、「国府台城の謎を追う」のサイトに行きつき事があります。「藪ログ」さんはこの記事の書き手なのでしょうか?非常に城郭史に詳しい方が書かれていることは間違いないと感心するのですが、「相模台の合戦」に関する記述は、残念がら、最新の歴史資料に照らすとやや疑問の残る内容となっていると感じてしまいます。(最新の歴史考察は『松戸市史』最新版の当該記述をご参照下さい)
 私が残念に思うのは、「小弓公方討死の地は相模台城なのか」の記述中の『国府台の2km北に松戸の台(松戸城跡・・・現戸定邸)があり、そのさらに3km先が相模台である。そこからさらに3km北側に本土寺がある。本土寺から見ると、この合戦は、近所で起こった戦であり、特に本土寺から見れば、戦闘の卑近地が相模台であったので、この戦いを相模台合戦と呼ぶようになったのではないだろうか。』という箇所です。
 松戸の住人としては、城郭史及び歴史的考証の見事な考察を披瀝されているのに「感動」するのに匹敵する位、「相模台の位置」の認識の誤りに「落胆」するのです・・・。
 松戸市歴史博物館の研究員の話では、「相模台の合戦」に関する信頼に足る歴史的資料は三つしかないというのが、研究者間の一般的認識であると言われていました。
 その一つである『小弓御所様御討死戦物語』では、小弓公方は、氏綱の「先勢が打上」げた「松戸の臺という山」より「物近」き「高き峰」に陣を置いたと書かれています。しかし、この「高き峰」が相模台かどうかは定かではありません。
 ただ、『戦物語』の詳細な合戦描写をみると、北条勢は「馬廻り」衆が合戦の勝敗を決めたようです。(北条勢の強さはこの騎馬衆にあるようです)。とすると、最終合戦場は松戸台と相模台の間の畑地か「陣ヶ前」や「矢切」の台地上の平坦地と考える他ありません。(「伸び行く松戸」:http://www.honcho-matsudo.com/ehagaki2.htmの鳥瞰図をご参照)
 先の研究員の方は『本土寺過去帳』に「相模台」と書いてあるのだから、歴史研究者としては「相模台」と考えるのが「善」とすべきであるとか言っていました。私は「素人」ですが、「松戸の住人」としては、北条勢と義明公方勢は「相模台」において「堂々と一戦を交えた」と考えています。『戦物語』では、『さすが小弓様も日の下の将軍御心掛けの事ならば、一族も御身立ち退かず。戦いの勝劣は世の習いなれば、定めなくして御所様負けさせ給うものなり』と書かれています。「藪ログ」さんのお考えとは異なりますが、ご参考までに書かせて頂きました。それでは。

by ひづめ
松戸@住人さん、初めまして。
残念ながら私は「国府台城の謎を追う」の著者ではありません。それを書かれたのは友人の余湖さんです。そのページの一番下の「トップページへ戻る」をクリックされれば『余湖くんのホームページ』だということがお分かりになると思います。本件につきましては、そちらの「掲示板&更新情報」へ書かれるのが最善かと思います。よろしくお願い致します。

有難うございます by 松戸@住人
慌ててしまい、失礼致しました。
『余湖くんのホームページ』に投稿するかどうかは、悩ましいところです。誤りを指摘されることは、誰でも嫌なものでしょう。『知らずにいることが良いこともあります』ということで、無理に指摘しないことに致します。それでは。
 

別の問題で、質問させて下さい by 松戸@住人
松戸@住人です。
「藪ログさん」も城郭史に相当詳しい方なので、ひとつ、質問させて下さい。
 このブログにもあるように、大田道灌が「取り立てた」という国府台城は、それこそ数知れないほどの記事があります。しかし、古くからの歴史のある市川には、本格的な城郭があったようには思えないのです。高城氏の大谷口小金城に匹敵する位の城郭があってもおかしくないはずなのですが・・・。何故でしょうか。私の日頃から抱いている疑問です。何か理由らしきものがあったら、教えて貰えにないでしょうか。宜しくお願い致します。

by ひづめ
松戸@住人さん

>誤りを指摘されることは、誰でも嫌なものでしょう。『知らずにいることが良いこともあります』ということで、無理に指摘しないことに致します。
 大丈夫ですよ、最初は私を著者と思ってご指摘されたのですから、同じではないですか。

>古くからの歴史のある市川には、本格的な城郭があったようには思えないのです。高城氏の大谷口小金城に匹敵する位の城郭があってもおかしくないはずなのですが・・・。何故でしょうか。
 私は地元でもないですし、ほとんど歩いたこともない地域のことで、お答えする何をも持ち合わせません。こういう問いこそ、余湖さんへ投げかけることをお勧めします。

ご返事有難うございます by 松戸@住人
松戸@住人です。
 この数日、沖縄旅行に出かけていたので、お礼が遅れてしまいました。アドバイス有難うございます。また、機会がありましたら宜しくお願いします。

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リストマーク のぼうの忍城 技巧の杉山城 

2012年11月20日 ()
忍城(行田市)
 忍城の水攻め攻防戦をコミカルに描いた映画『のぼうの城』を2週間前に見て、そのうちに行田へ行って見ようと思っていたのだが、映画封切りに合わせて郷土博物館の月曜開館を年内実施していることと城絵図の企画展開催期間とのタイミングを見て今日行って来た。

1211190.jpg本丸跡に建つ復元3階櫓

1211191.jpg本丸北側の諏訪曲輪の土塁と水堀跡
 土が入れられ風前の灯。

1211192.jpg街中の遺構
 忍藩°(忍パン)を買いに立ち寄ったベーカリーショップの前の道と水路は水堀の名残。

1211193.jpg高源寺
 猛将正木丹波守が開城後に出家し開基した寺。

1211194.jpg丸墓山古墳と石田堤
 石田三成の本陣。日本最大の円墳。

1211195.jpg石田堤史跡公園
 吹上変電所の北東200mの上越新幹線高架下が展示施設になっている。

1211196.jpg石田堤
 上越新幹線高架の北東側150mほどが緑地公園になっていて、その北側の新忍川に架かる堀切橋のところから北西へ向かって300mほどが残存。こちら側には駐車場もある。
 映画の中では重要なシーンである津波が押し寄せる水攻めシーン。しかし、巨大ダムを決壊させるわけではないからあれはありえないだろう。


杉山城(嵐山町)
 築城主体と築城時期に関していくつもの説が提示されている「杉山城問題」で有名なお城。

1211198.jpg南二の郭と南三の郭の切岸の屏風折れ
 ここだけではなく一事が万事、小ぶりではあるが遺構全体が技巧に凝りまくり。「横矢マニア」という感想も出ていた。様々な城郭技巧の展示会場を思わせる印象。堀の幅が小さいのは鉄砲戦を意識していない時期に作られたためか。

1211197.jpg
南三の郭から馬出し郭方向をiPod touchのパノラマで撮影
 中世城郭の形態を観察するための入門に良いお城だと思う。
[2012.11.20(Tue) 00:01] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 八王子城ツアー 

2012年11月06日 ()
前から行きたいと思っていた八王子城へ登って来た。

11月04日(日)
1211042.jpg昼、まずは八王子市郷土資料館を目指して出発。10月20日、八王子城趾入り口にガイダンスセンターがオープンしたのを記念して、現在郷土資料館で特別展『八王子城』が開催されている。遺物、特にレースガラスは言うに及ばず五彩、青白磁のような豪華な陶磁器の多さに驚く。

121104.jpg八王子城登山は明日のお楽しみにして、宿へ向かう前に片倉城を見ておく。縄張図の南西端に描かれている丸馬出が気になるが、あまりの薮のため突入は諦めた。

11月05日(月)
12110501.jpg八王子城趾
管理棟の前ではオレンジャー姿のボランティアガイドさんたちが準備中。本丸、詰めの城までのおよその時間を聞いて心構えをする。

12110502.jpg登山、登山、登山、、、
ただひたすら山道を登り続ける。

12110508.jpg八王子神社
八王子の地名の由来になったという。管理棟→八王子神社30分。

12110504.jpg本丸

12110505.jpg馬冷やし
本丸と詰めの城の間の堀切。八王子神社→馬冷やし12分。

12110506.jpg詰めの城
馬冷やし→詰めの城10分。

12110507.jpg詰めの城北側の大堀切
巨大な堀切だが、写真ではその迫力を表現できない。

12110503.jpg松木曲輪
八王子神社南側の松木曲輪まで戻ってここで昼食。曇りのため残念ながら遠くの眺望は望めず。詰めの城→松木曲輪15分。

12110509.jpg太鼓曲輪
松木曲輪から少し下ったところ(小宮曲輪の南側)に、太鼓曲輪や根小屋を俯瞰できるスポットがある。太鼓曲輪の稜線は樹木で覆われているが、それでも堀切のくびれがいくつか認められる。今回は時間が無いので次回のお楽しみにする。

12110510.jpg御主殿と曳き橋
曳いた橋を収納するだけのスペースが無いのでは?

12110511.jpg御主殿
内部は整備工事中。写真正面奥から本丸へ登る道があるが工事現場を横断できそうにないので今回は見送り。

12110512.jpg御主殿の滝
有名な心霊スポットらしい。

12110513.jpg八王子城搦手口跡
陣馬街道沿いの松竹橋から南へ700mほど入っていたところに八王子城への登山道入り口がある。恩方第一小学校が立てた手づくりの小さな看板が目印。
[2012.11.06(Tue) 11:06] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(6) 見る▼
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COMMENT

八王子城 by 源五郎
こんにちは。ひづめさん八王子城行かれたんですね。

近日久しぶりに登城しようと思っていたんですが、御主殿内部は整備中なんですか。

この城は大好きで、昔からもう数十回通っています。

正規の搦手道とは別の、上杉方藤田能登守信吉隊が奇襲攻撃したとも言われる、棚沢道という裏の裏口は、かなり険しいですが、滝あり寺跡あり炭窯跡ありのなかなか興味深いルートですよ!

城のある深沢山の麓で、搦手道から分かれています。

by ひづめ
源五郎さん

先日はありがとうございました。
Pさんに続き余湖さんも行かれたようですが、見るだけでは解釈が混乱する遺構ですね。

>もう数十回通って

源五郎さんは八王子城はお得意なのですね。私たちも前々から行きたかったのですが、ようやく念願叶いました。ちょうどガイダンスセンターオープン記念の企画展もやっていて良い機会でした。おまけに1日違いでこの大雨、運が良かったです。初めてでしたのでオーソドックスなルートをとりあえず往復しました。殿の道の石垣と太鼓櫓が心残りなので再度行ってみたいです。

>棚沢道

今、ネットで見ましたが、ものすごい険しいルートではないですか。私たちのような足弱には無理そうです(おまけに私は大の高所恐怖症)。ところで、ここにあるという炭窯跡というのは戦国期の炭窯跡ですか?そんなわけないか。

>搦手口

八王子城管理棟手前の近藤曲輪にある立体地図で搦手口はここら辺りということであの恩方第一小学校の立て札のある分かれ道へ行ったのですが、実際の枡形と古道は現在の道に対してどのような配置になっていたのか、お分かりでしたら教えてください。

>『中城古墳群』

本日確認できました。ありがとうございました。

by 源五郎
こんばんは。

昨夜に書き込みをしたはずですが、なぜかない源五郎です(笑)

>殿の道

ここの脇の段々の石垣は、御主殿付近のちょっと立派すぎるものと違い、古城の雰囲気満点の崩れかけたもので、本来の八王子城を偲べるいいスポットですよ。

>曳橋

アノ立派すぎる橋を曳くわけではなく、真ん中辺りの部分だけを曳いたようです(笑)


>棚沢道&炭窯

足弱ですかいやいや(笑)棚沢道は確かにかなり険しいですが、それゆえに後世の改変をあまり被らなかったようで、炭窯跡、寺跡、滝が幾つかあり、また落城に繋がる奇襲攻撃がここから成されたという伝承と相俟って、当時の面影を非常に残す場所と言えましょう。

炭窯跡は、立地構造、またこの山の歴史的経緯からして、まだ詳しく調べられてはいないようですが、当時のものの可能性が高いということです。
崩壊しながらも、わりと明確で規模のあるものが、山内に複数基あります。
御主殿の滝の上にある水汲み遺構と共に必見ですよ!


>搦手口

枡形は、松竹橋を渡った周辺にあったとも言われています。しかし、搦手方面自体が、大手に比べて調査自体が遅れているようです。

登城道は、橋から集落を抜けながら神社前を通り、深沢山の麓に至る現在の道筋とあまり変わらないものだったと思われます。
往年の屋敷地のような地割りが道筋に残存することや、山麓において、この道から棚沢道や青竜寺の滝があるルートなどが分岐するからです。

ただ、搦手道は、松竹橋から深沢山の中腹に至るまでの道筋に、枡形も含めて防御施設に乏しいのです。
未完成説の由縁でもあるのですが…。

八王子城落城を扱った小説では、防備の不備を補うため、搦手登城道に木の皮を敷き、油を撒いて豊臣方に抵抗したという解釈をしています(笑)

実は搦手恩方方面こそ、城主氏照の元々の本拠地である由井や町場に向けて開き 、そして甲州武田勢の侵入ルートを押さえるという、最初の段階の築城理由が隠れていると言われています。

しかし、大手ルートを新たにそして大規模に整備するほうに力を注ぐ、社会情勢などの変化があったのではないでしょうか。

by ひづめ
>古城の雰囲気満点

御主殿が公務の場としたら、こちらがプライベートな場だったのでしょうかね。当時は山はもっときれいだったとは思いますが、それにしてもこんなきつい斜面に日常の生活の場があったというのは実感が持てません。

>曳橋

渡れなければよいのですから、届かないだけの空間をつくるわけですね。攻め手も長い梯子を持っているでしょうから十分に離さないとならないでしょうが。

>棚沢道&炭窯

当時のものの可能性が高いというのは興味深いです。本丸まで35分ほどかかる足弱の私で、棚沢道はどのくらいの時間を要しますか?道は荒れて迷う可能性ありますか?炭窯跡、寺跡、滝などは歩いていれば分かるのでしょうか?ルート案内のサイトはありますか?

[追記]ここにマニアックなページがありました。
http://homepage1.nifty.com/GOME/8SHIRO/MAIN.htm

by 源五郎
>殿の道

これは、城主が御主殿から要害部に即上がれるためのルートらしいです。私室から山側の庭園などを抜けて行ったのでしょうね。

>こんなきつい斜面に日常の生活の場があったというのは実感が持てません。

確かに。しかも戦国も終わろうというのに南北朝じみたこの要害(笑)
武田信玄に平城の滝山城を陥落寸前までにされたことが、余程堪えたのでしょうか?


>棚沢道&炭窯

道はやや荒れていますが、探訪する方々は少なくないので、道筋はわかると思います。

山の麓で、棚沢道&炭窯&滝と、青竜寺の滝&寺跡の道が分かれていまして、前者は山頂まで行け、後者は滝で行き止まりです。
そして、後者の道は昨年久しぶりに訪れたら、倒木などでかなり荒れ気味でした。

両方見ますと2時間はかかりますかねぇ…。
棚沢だけなら1時間半ぐらいかと。

ルートに関しては、椚国男『戦国の終わりを告げた城-八王子城を探る』(ロッコウブックス)、揺籃社ブックレット『八王子城みる・きく・あるく』が、棚沢道などのみならず、様々なルートや遺構がもっともよくまとめられております。

前者はあまりないかもしれませんが、後者は、八王子城歩きのための最近の冊子なので是非。

これを見ながら行かれる事をオススメいたします。

>マニアックなページがありました。
これは知りませんでした。すごいなぁ(笑)

by ひづめ
源五郎さん

詳しい情報をありがとうございます。

>両方見ますと2時間はかかりますかねぇ…。
>棚沢だけなら1時間半ぐらいかと。

次の機会には、太鼓曲輪と水汲み場と殿の道と搦手口-棚沢ルートを回ってみたいと思います。

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リストマーク 2012年の夏休み 

2012年09月08日 ()
今年は8月31日から9月4日まで5日間夏休みにした。

8月31日(金)
1208311.jpg豪徳寺

1208312.jpg1208313.jpg世田谷城 ほとんど何も残っていないと聞いていたので、東京の真ん中にこれだけの土塁と堀が残っているのを見て十分楽しめた。

1208316.jpg代官屋敷跡と世田谷区郷土資料館

1208314.jpg旧乃木邸と寿号の厩 日露戦争で旅順開城後の水師営の会見でロシアのステッセル将軍より貰い受けた寿号の厩を見に行った。

1208315.jpg首相官邸前集会 金曜日の夜に都内にいる機会などこの先ないだろうから、首相官邸前集会の様子を見に行った。

赤羽泊 金曜の夜ということもあってか、赤羽駅近くの飲食街は大変な活気に満ちていた。地方都市の凋落と反対に大都会が繁栄していることを体感する。

9月01日(土)
1209014.jpg荒川旧赤水門 荒川から隅田川を分水する水門。現在使われているのは青水門。

1209015.jpg稲付城 赤羽駅の南西200m程のところにある静勝寺が主郭に当たる。

1209016.jpg中十条界隈散策 環状七号線中十条交差点から南西へちょっと入ったところで私は生まれ、3歳までここで過ごした。交差点南西角にある八雲神社の縁に座って毎夕じいさまと自動車を眺めたものだ(当時は歩道橋など無かった)。

1209011.jpg飛鳥山公園 渋沢栄一の旧邸が残る。また、北区飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢栄一史料館という3つの資料館が並んでいる。

1209012.jpg中央線武蔵境駅 武蔵境駅は中央線の前身である甲武鉄道が1889年に新宿-立川間に開通した直後、最初に置かれた駅(当時は境停車場)の一つだったにもかかわらず、周辺は戦後の現代化の中でも中途で取り残されたような感じの地域になっていた。ここ最近、中央線の高架化に伴って武蔵境周辺も駅舎も大きく様変わりしたが、子どもの頃のあの東京の中にある地方都市的面影が消えて行くことにはちょっと寂しさを感じている。

1209013.jpg小学校同窓会 吉祥寺にて。幼稚園からの幼なじみや初代ガールフレンドと卒業以来43年振りに再会。今夜は桜堤泊。

9月02日(日)
1209021.jpg鉢形城 

群馬県立歴史博物館 

高崎泊 

9月03日(月)
1209031.jpg高崎城 

1209032.jpg富岡製糸場 8月23日に政府がユネスコ世界遺産への推薦を決めたという上毛新聞号外が出ていた。

1209033.jpg小幡陣屋 案内記事には小幡城と記載されているが、戦国期小幡氏の城は国峰城でありこの小幡城は中世城ではなかった。近世になって小幡藩陣屋が置かれ、藩主が松平のときに城主格になったので小幡城と呼ばれる様になったらしいが実態は陣屋に変わりはない。地元の方の話では国峰城では焼米が拾えるらしい。

1209034.jpg甘楽町歴史民俗資料館 甘楽郡では組合を作り富岡へ繭を出荷せず自前の製糸工場を持っていた。この資料館はその繭倉庫を再利用。

1209035.jpg桐生が岡動物園 象やライオンやキリンまで展示している本格的な動物園だが入場料無料。

薮塚温泉泊 

9月04日(火)
1209041.jpg渡良瀬遊水池 今日は偶然にも田中正造の命日だったらしい。

1209042.jpg古河公方館 

地質標本館 つくばへ戻って長年の懸案だった地質標本館を見学。鉱物マニアには垂涎の的になりそうなコレクションがいっぱいだが、こちらは全然興味が湧かない。展示が盛り沢山過ぎ。

帰宅 最初から予定していたのは世田谷城と鉢形城だけだったが、終わってみると1日1城を達成していた。
[2012.09.08(Sat) 21:48] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 川越 ポタリングで散策 

2012年06月25日 ()
以前から行ってみたかった川越。梅雨の合間のどんよりと曇った一日だったが、幸い雨に降られず、自転車日和だった。

以下の所を回って来たが、まとめは手抜き。

大堀山館跡

国指定史跡河越館跡

川越散策
120625.jpg時の鐘の裏でブランコに乗って一休み。

古尾谷氏館
[2012.06.25(Mon) 19:01] 茨城県外の話題 | Trackback(-) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 流山の野馬土手 

2012年03月26日 ()
1203261.jpg『小金牧 野馬土手は泣いている』の青木更吉先生に南柏・松ヶ丘の野馬土手をご案内いただいてから5年と少しの時間が過ぎた(→2006年12月20日)。

今日は春めいた休日になったので、折り畳み自転車を持って常磐線と東武野田線を乗り継ぎ運河駅で降り、北西の風を背に受けながら南下しつつ周囲に点在する上野牧(かみのまき)の野馬土手を回ってみた。左写真は西原1丁目の緑地の土手。

1203262.jpg切れ切れとは言え、思った以上に残存してはいたが、現在開発が進行中の東武野田線とTXの流山おおたかの森駅周辺はあちらこちら土がひっくり返されていて、特に駅北側の土塁は隠滅していた。また、ところどころで出会った地元のみなさんの野馬土手に対する認知度はあまり高くないような印象を持った。

右の写真は流山おおたかの森駅近くのオランダ観音。西洋とは違う馬の扱われ方に馴染めずに非業の死を遂げたアラブ馬の供養のための馬頭観音。小金牧らしい史跡だ。
[2012.03.26(Mon) 21:25] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 那須の高舘 

2010年09月12日 ()
100906.jpg夏期休暇に栃木県大田原へ行ってきた。くそ暑いし、山梨の白山城で夏の城歩きには懲りているので、あまり歩くところの無い城をひとつだけ回ってきた。古い城なので技巧的な部分は無いか残っていないかで、面白みは無かった。どんな城かは現地の解説板から抜き書きしておいた。

那須川左岸の急峻な丘に築かれた要害堅固な山城で、白河の関に通ずる東山道の渡河点を押さえる要衝の地にある。主郭、二の丸、出丸、帯郭などがあったという。
伝えによると那須与一宗隆の父資隆が築城し、一時那須の本拠となり、与一宗隆も在城したという。源頼朝の命をうけた梶原景時が指揮する鎌倉の軍勢に攻められ落城したという(世にいう白米城の伝説)。また、那須家の一つ川田氏の要害とみる説もある。
[黒羽町現地解説板より]
[2010.09.12(Sun) 21:04] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 甲斐国と土浦をつなぐ旅 

2010年06月30日 ()
先にお知らせいたしました、山梨県立博物館で公開中のシンボル展『実在した山本菅助』をオカちゃんといっしょに見てきた。なぜ土浦と関係があるかについては前回の記事をご覧いただきたい。

1日目
1006270.jpg山梨県立博物館 博物館に到着したとき、ちょうどシンポジウム『山本菅助 再考』が開催されていたので、途中から参加。最後の講演とシンポジウムと質疑応答を聞くことができた。

1006271.jpg小山城 展示を見る時間が無くなったので明日再度訪問することにして、近くの小山城を見て石和温泉の宿泊先へ向かった。

2日目
1006281.jpg甲府城 甲府駅のすぐ近く。公園整備の途中のようだが、遺構がまとまりよく残っていて、良いお城だと思う。ただ、甲府盆地らしく無風で日差しが強く、午前中だというのにとにかく蒸して暑い。

1006282.jpg躑躅ヶ崎館 大河ドラマ『風林火山』放送中ほどの賑わいは無いと聞いていたが、観光客はけっこう入っていると思う。

1006283.jpg躑躅ヶ崎館 西郭北側の直進枡形

1006284.jpg白山城 ちえぞーさん情報を頼りにアプローチ。分かりやすい情報だわいと本郭へ近づいた時、ヨメさんの悲鳴。見るとひるが足首に吸い付いている。はたき落としていると今度はオカちゃんの悲鳴。靴下にいっぱいついている。自分の靴下にもズボンの裾にも運動靴にもいっぱい付いてうごめいている。なんとか落として本丸へたどり着く。しかし、新たにまたついている。悪くないお城なのだが長居はしたくない。そそくさと撤収。途中も何度かひるを落としながら下山。日向へ出て落ち着いてひるを落とし、さらに駐車場へ戻ってズボンを脱いでパンツ一丁になって総点検。ちえぞーさんに夏場はひるにご用心情報も追加してもらおう。1006285.jpg残念ながらひるの記念写真は撮り忘れたので、帰宅後血だらけになっていたよめさんの足首、翌日になってもまだ少し出血していたその写真を載せておこう。

1006286.jpg新府城 丸馬出手前の直進枡形


1006287.jpg山梨県立博物館 シンボル展『実在した山本菅助』 入館すると担当学芸員氏による展示解説の最中。これはラッキー。一通りの解説が終わった後も、展示室で個別の質問に答えてくれていた。その他にも数人のインストラクターのお姉さんがいて、希望すればほぼ貸し切りで解説してくれるので、普段なら眺めるだけで終わってしまう古文書展示が、その内容までとても分かりやすかった。
山梨県立博物館、施設が充実しているので、近くにこんな博物館があったらと感じた。それを支えるスタッフの応対がこれまたとてもすばらしく、実に感じの良い博物館だった。

次はぜひ土浦で「山本菅助と土浦城」をテーマにした展示をやって欲しいと思った。
[2010.06.30(Wed) 21:08] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 国次高射砲陣地跡 大阪市東淀川区 

2010年06月01日 ()
1005313.jpg大阪へ行く用事があったので、現在取り壊しか保存かで揺れている東淀川区西淡路5丁目の高射砲陣地跡を見てきた。

東淀川区の高射砲陣地跡というのはこんなもの:
 戦争遺跡見学会
 東淀川高射砲台
 高射砲台跡住宅
 東淀川区の高射砲台

上記の様な報告がすでにあるのでどんなものかはそちらをご覧いただくとして、ここでは現地で入手した情報を以下にご紹介したいと思う。

1005310.jpg阪急千里線淡路駅西口を出て商店街へ入るとすぐ右手の一画に東淀川空襲の惨状を伝える解説コーナーが置かれている。その中に終戦直後の高射砲陣地の形状が分かる航空写真も掲示されている(写真はその一部分)。1005312.jpgこれと地図を参考にすると、元は6基が半円弧状に配置されていたが、近年のマンション建設時に東側2基が撤去されたことが分かる。

1005314.jpg西側の1基は鉄筋工場の中に取り込まれてはいるが、部分的に残っている。工場の屋上へ上らせていただき、残りの3基を眺めることができた。1005315.jpg

1005316.jpg高射砲台座以外の遺構として、南側道路沿いの民家として使われている3つの建物は弾薬倉庫を改築したものだそうで、その上に架かるこのブリッジ状物は航空写真に横長に写っている構造物にまず間違いない。1005319.jpg参考までにGoogle航空写真に遺構を記しておく。
[2010.06.01(Tue) 16:37] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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COMMENT

by オカ
また面白そうなところに行って来ましたね。妙に雑然としているところが戦跡らしくないというか・・・。都会にこんなものが残っているのは珍しいですね。

ちょっと調べたらここには陸軍の八八式7.5センチ高射砲が配備されていたようです。たぶんB29には全く届かなかったと思われます。

by ひづめ
町中によくこれだけ残ったものです。戦後のどさくさの中で、人が住み着いちゃったものだから、歴代行政がもめ事先延ばしにしていた遺物とも言えますね。

高度10000mのB29には届かなかったようですし、爆撃も高射砲陣地など狙っていません。そこよりも少し南の鉄道や橋の周辺に爆弾の大穴がたくさん写っています。

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リストマーク 奥州衣川を経て北海道積丹小樽函館の旅(その2) 

2009年10月01日 ()
1日目(8月28日)からの続き
 
★2日目(8月29日) 小樽~積丹巡り~小樽

▶小樽駅周辺
夜行寝台で札幌に着き、そのまま小樽へ。朝飯前に運河など小樽の街を散策。

0908291.jpg 運河に架かる橋の上から小樽駅方向を臨む。
Open↓

0908292.jpg 運河に面した倉庫群

▶積丹巡り
昼は積丹巡りのバスツアーに参加。
0908299.jpg 

0908298.jpg 積丹岬手前の島武意海岸
  積丹ブルー!

0908293.jpg 神威岬(かむい-みさき)
  息も吸えないほどのものすごい強風。

0908294.jpg 神威岬に設置された旧陸軍の電磁波レーダー跡(だったかな?)。

0908297.jpg 美国でグラスボートに乗船

0908295.jpg 帰路休憩した道の駅スペースアップルよいちには地元出身の毛利衛さんを記念した「余市宇宙記念館」が併設されていたが入館者激減により昨年閉鎖されてしまった。スペースシャトルのオブジェが虚しく放置されている。

★3日目(8月30日) 小樽~長万部~函館
0908301.jpg ありふれたアングルでも、ここ七財橋に立って函館山を見上げると、また函館へ来たなぁという気分を深呼吸できる。夜は行き慣れた居酒屋で友と旧交を暖める。

★4日目(8月31日) 函館~台風の羽田へ~帰宅
 台風11号が関東へ近づいているという事で、郷土史の師匠のお宅へ伺うもお茶を2杯いただき早々にお暇。ご夫妻のお元気なお顔を拝見できただけでも行った甲斐があった。予定よりも6時間早い便に変更して函館を発つ。着陸困難な場合には函館へ引き返す条件付きの出発だったがそれほどの揺れも無く無事到着。

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[2009.10.01(Thu) 11:30] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 奥州衣川を経て北海道積丹小樽函館の旅(その1) 

2009年09月03日 ()
★1日目(8月28日) 出発~一ノ関・衣川・平泉~盛岡~夜行寝台で札幌へ

0908281.jpg 出発の朝、東の空に明けの明星が輝いていた。
Open↓

▶衣川歴史ふれあい館
 定期観光バス義経号に乗る前に歴史ふれあい館へ行ってこの地域の歴史をざっとおさらい。解説員の方に時間が無いことを告げダイジェストで説明してもらう。安倍氏、清原氏、奥州藤原氏、前九年の役、後三年の役などのややこしい歴史を再確認できた(この辺りの歴史は何度聞いてもその度に忘れる)。この歴史ふれあい館。駅からちょっと離れているが寄ることお勧め。
 →衣川歴史ふれあい館ホームページ

▶定期観光バス義経号
 衣川・平泉は岩手県交通の定期観光バス義経号に乗ってお気楽ツアー。

(1)柳之御所資料館
0908282.jpg 国指定史跡柳の御所発掘現場に隣接している。生憎の雨のため駐車場から堀跡を写しただけ。
 →柳の御所資料館ホームページ

(2)中尊寺
0908283.jpg 安倍氏の本拠であり前九年の役の戦場となった衣川が北上川へ注ぐ河口を中尊寺中腹より臨む
 →中尊寺ホームページ

0908284.jpg 中尊寺本堂

 有名な金色堂は保護のための覆い堂の中に収められていて、外から写真を写してもつまらないのです。

(3)毛越寺
0908285.jpg 残存遺構が少ないと言われるが、境内全体が庭園のようだ。
 →毛越寺ホームページ

(4)達谷窟毘沙門堂
0908286.jpg 坂上田村麻呂がこの洞窟にいた蝦夷を討伐した記念に建てたお堂と伝わる。
 →達谷窟毘沙門堂ホームページ

(5)厳美渓
0908287.jpg 栗駒山を水源とする磐井川中流の渓谷。川底には甌穴の発達が顕著。名物は「かっこう団子」。渓谷の休憩所に設けられた籠に代金を入れて合図の板を叩くと、対岸の店からワイヤーロープで籠を引き寄せ引き換えにだんごと茶を送ってくれるという。このときはすでに売り切れの赤い旗が立ってしまっていて、飛んで来る団子を見られなかった。
 →Wikipedia厳美渓

▶一ノ関駅周辺散歩
一ノ関城
0908288.jpg 盛岡地方裁判所北側の残存土塁。

 福祉センター脇の一ノ関城の解説版を眺めていると犬を連れた大林宣彦監督のような髭のご老人が「裁判所のあの建物とその建物の間に土塁が唯一残っているよ。磐井川の堤防側から見るとよく見えるよ」と声をかけてくれた。こちらから尋ねもしないのに、土塁好きに見えたのだろうか。
 →「一関城」検索結果

▶盛岡駅周辺散歩
0908289.jpg 盛岡城 本丸-二の丸間の堀

 曇っていたこともあり盛岡駅に着いたときにはすでに薄暗くなりかけ。盛岡城まで駅から1kmほどなので歩いて行く。本丸に着いたときはもう真っ暗。北側の桜山神社の脇に降りた時、道の反対側の馬出状の一画が妙に懐かしく感じられた。ここは『鳥瞰図作成過程』の鳥瞰図画家konatuさんがツバメの視線で丹念に描かれていたあの場所ですよ。時間があればどこかの店で一休みしたかった。
 →「盛岡城」検索結果

盛岡駅で夕食を済ませ八戸、青森と乗り継ぎ急行寝台で札幌へ。以下、その2へ続く。

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[2009.09.03(Thu) 21:56] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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COMMENT

by konatu
一関城なんてあったんですね。伊達藩の城ですか?
盛岡城をご覧になったのですね。
あの城は高知城と似ているそうなんですが、どこが似てるんですか?

by ひづめ
konatuさん

一関城の説明板を要約すると、

一関藩は宮城県岩沼の領主であった田村氏が仙台藩から三万石を分封され、大名格を与えられたのが始まりです。初代は田村右京太夫建顕で、入部は1682年(天和2)5月2日。以後、明治維新まで185年、一族11人が一関藩主を担ったため別に「田村藩」と言われました。

とあります。

高知城と盛岡城は似ていると言われるのですか?私には分かりませんので、余湖さんが描いた鳥瞰図を見比べて下さい。
盛岡城
http://homepage3.nifty.com/otakeya/ouu/morioakajo.htm
高知城
http://homepage3.nifty.com/yogokun/kouti.htm

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リストマーク 松ヶ崎城(千葉県柏市)で工事始まる 

2008年05月28日 ()
matsugasaki01.jpg 『さわらび通信』のさわらびゆみさんからお知らせが届きました。千葉県柏市の松ヶ崎城で農業用地転用のための工事が始まっているそうです。今後の保存活動で破壊を食い止められるかどうかは予断を許さない状況のようで、破壊前に見ておくには今しかないかもしれません。[左上は2006年12月18日に散策したときの写真]
さわらび通信の掲示板
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会のホームページ
[2008.05.28(Wed) 10:25] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(6) 見る▼
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苦言 by 一考
>破壊前に見ておくには今しかないかもしれません。
こんな呑気な事を言っているから,城歩き趣味の方々はいっこうに社会を動かす事ができんのです。ま,趣味の範囲でしょうから。

by ひづめ
一考さん、こんにちは。
 こういう書き方をするとこういうご批判を受けそうな気はしていました。私自身が積極的に関わっていないところなので、あまり声高な呼びかけもしにくいです。史跡の破壊現場を見ることで何かが始まるきっかけになる場合もあると思うのでそのお知らせの記事です。とはいっても「呑気な事」というご批判は免れませんが。

by 一考
少々,けんがありました。本意ではありません。失礼しました。また台場でもあるきませう。

by ひづめ
一考さんの期待の気持ちが感じられるだけに少々ずんと来ました。台場といえば、踏査にかこつけて平賀漁港に泊まってみたいものです。

松ヶ崎城に助太刀を! by さわらびY(ゆみ)
常総の各城主さま

朝日・東京・毎日新聞やインターネットで既にご存知の通り、今、柏市松ヶ崎城跡は、前代未聞の史跡破壊の真っただ中にあります。
まずは百聞は一見に如かず、動機はともあれ現地をご覧いただきたいと思います。

現地へ行けない方は、6/1現在の最新の状況を
「さわらび通信」掲示板(更新しましたのでTOPからお入りください)
http://sawarabi.bbs.coocan.jp/
「古城の丘にたちて」外伝
http://mori-chan.cocolog-nifty.com/gaiden/
をご覧ください。

松ヶ崎城の皆さんは必死になって闘っています。
地権者とのデリケートな問題もありますが、近辺の各城主様におかれましては、現地偵察、HPやメールを駆使した情報作戦、城関係の会合でのビラ爆弾?などもてる武器での助太刀をよろしくお願いいたします。

by ひづめ
さわらびゆみさん
 お知らせをありがとうございます。

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リストマーク 古馬術伝える屏風 

2007年07月10日 ()
 Yahoo!ニュース(発信元は中日新聞)「古馬術伝える屏風 木曽の酒造店が町に寄贈」
[2007.07.10(Tue) 17:12] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 全長120kmの猪垣! 

2007年01月29日 ()
 『神奈備掲示板』というのを読んでいたらこんなのを見つけた。「山の中に石垣があることがよくあって、最初は城跡かと思っていたのですが、高さが2mくらいしかなくて、城壁にしては低すぎます。盛り土をした畑かとも思ったのですが・・・猪垣ですね。愛知には岡崎市に全長60kmの猪垣がありますが、小豆島の猪垣はなんと全長120kmだそうです!」[2007/01/06(Sat) No.8091 PONTAさんの書き込みより]
 山の中にはこんなものも残っているのか。
[2007.01.29(Mon) 00:53] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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by konatu
イギリスだと羊を囲っておく石垣がありますよね。それを再現した物を小岩井農場で見たことがあるんですが、柵の方が簡単だろうに、なんで石垣を作ったのかなぁ?と疑問ばかり湧いてきたのでした。

木が無い? by ひづめ
>柵の方が簡単だろうに、なんで石垣を作ったのかなぁ?

 たくさんの木材を集めにくいとか、腐ったときのメンテがし難いとか、石垣の方が優れているのでしょうかね。そうだ、小岩井牧場で思い出した話があるので、konatuさんの方へ後でコメントしますね。

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リストマーク 熊本城探検報告 by『たぶん取手ブログ』 

2006年12月31日 ()
20061224_RIMG0062.jpg duckhouseさんの『たぶん取手ブログ』ではただ今「熊本城探検報告」『熊本城(1)~(5)』を連載中です。[『たぶん取手ブログ』の天守閣の写真をお借りしました]
[2006.12.31(Sun) 10:58] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(1) 見る▼
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あけましておめでとうございます by duckhouse
あけましておめでとうございます。
私の拙いブログを2回も取り上げていただきありがとうございます。(^_^)熊本城編は今日で全部アップ完了となりました。

#追伸
私のお城初めは、「高井城」と市之代古墳群訪問でした。

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リストマーク 「函館検定」があるなら「茨城検定」「美浦村検定」があって良いかも 

2006年12月22日 ()
text182.jpg 来春3月11日に第1回『函館検定』が行われるそうだ。正式名称は『函館歴史文化観光検定』。受けてみたいが受験しに行くにはちょっと遠い。一応公式テキストと受験申請書を申し込んでおいた。函館の極限られた分野に関してはかなり詳しく知っている部分はあるが、全般的な知識を要求されるとなると点数は取れないと思う。地元を見直す格好の機会になるこういう企画に目がない自分としては、身近にあればすぐに飛びついてしまうのだが。
[2006.12.22(Fri) 07:59] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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by konatu
私の街にもご当地検定あります。試験はもう終わったのですが、どんな問題が出たのだろうと気になっております。今回は受けるのを見送りましたが、無視できないくらいの盛り上がりを見せてきたら、その時が受け時かなぁと思っております。

by ひづめ
ご当地検定はただ今全国的に盛り上がりつつある途上でしょうか。
>無視できないくらいの盛り上がりを見せてきたら~
 こういうものは盛り上がりを見せる前のマイナーな頃が魅力ですよ。私の地元でもやって欲しいと思います。おいしい農作物と霞ヶ浦と陸平・木原城に代表される豊かな歴史と競走馬と、、、設問はいくらでも作れます。

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リストマーク 反射炉まつりでカノン砲 

2006年12月13日 ()
 約150年前に国内最初の反射炉を作ったのは佐賀藩で、今日12月12日はその反射炉に初めて火が入った記念日だそうだ。それに因んで毎年この日に反射炉まつりを佐賀城で開催しているとのこと。復元された洋式大砲カノン砲による7発の祝砲を放つというデモンストレーションもあったようだ。その迫力は火縄銃どころの騒ぎではないだろう。[Yahoo!JAPANNews12月13日配信]
[2006.12.13(Wed) 20:39] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 大阪岸和田『岸和田古城図』発見 

2006年12月11日 ()
 「元禄7(1694)年に描かれた古図を元に、文政9(1826)年に改めて現地を実測して製図した」かなり正確な『岸和田古城図』が発見されたという記事。[asahi.comMYTOWN大阪12月07日]
[2006.12.11(Mon) 23:01] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 大阪住吉の土佐藩陣屋 

2006年12月08日 ()
 11月上旬に行った大阪では、事前に詳しい情報を集められずに住吉にあった土佐藩陣屋跡周辺をとりあえず回ってきた。史料とは言えないが、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の中で「住吉陣営」として短く紹介していることが分かった。ということはその元史料なるものがあるはず。一万坪を越える敷地とか、海浜に面しとか、沿岸に砲台とか書かれており、もう少し詳しく知りたくなった。しかし、大阪は遠い、、、[写真は土佐藩陣屋から生根神社(住吉大社の北300m)に移築された石垣]
[2006.12.08(Fri) 23:11] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 高取城CG 

2006年11月28日 ()
 専門メーカーに発注すると数千万円かかると言われる城郭のCG、最近の高機能ソフトを駆使できるだけの力があればアマチュアでも相当なレベルのものが作れるようだ。
 例えば、ワタナベさんの『ビジュアル再現村上城』の中にある2D「復元村上城」と3D「電影村上城」Vol.1山麓居館編およびVol.2山頂城郭編などは必見!
 単純にアマチュアの技とは言えないが、今日はこんなニュースも見つけた。奈良産業大学の学生が高取城CGを作ったという記事[asahi.com11月26日]。詳しいことはプロジェクトのホームページ高取城CG再現プロジェクトをご覧下さい。
[2006.11.28(Tue) 00:07] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク 松前城の地下には鉄道が!? 

2006年11月24日 ()
061123.jpg キトラさんの『ブログ 函館のニュースな出来事。とか。』を読み返していて、松前城の下に旧国鉄松前線が通っていたことを紹介する11月18日の記事「土木を感じる見学会」その1に目が止まった。昭和17年、上ノ国からマンガンを運び出す軍需目的であったため、当時すでに松前城は国史跡であったにもかかわらず城の中を切り通しにして松前線の線路を敷設し、その上に土をかけてトンネルにするという工事が行われたということだ。これも今となっては壮大なトマソンだ。旧松前線とは逆に、函館から東へ向かう旧戸井線橋脚遺構など道南にはトマソン化した近代化の遺産があちこちに残っているなぁ。もうひとつ、「土木を感じる見学会」その2の松前城の復元石垣の話、こちらもとっても面白いです。
[写真は昭和51年と現在の松前城航空写真で、現在図白線部がトンネル位置]
[2006.11.24(Fri) 00:26] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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リストマーク konatuさん、お城の鳥瞰図に挑戦 

2006年11月20日 ()
 ブログ『鳥瞰図作成過程』を運営されている岩手県在住の鳥瞰図画家(志望と書くべきか)konatuさん、お城の鳥瞰図は描いたことがないと言われていましたが、地元盛岡城の鳥瞰図に挑戦され始めたようです(「石垣の怪物」)。konatuさんは私の書いた「ウモさんの鳥瞰図」という『藪ログ』の記事へ鳥瞰図繋がりで辿って来て下さいました。お城の鳥瞰図へ挑戦されたのは、まさか私の口車に乗ってではないでしょうね。もしそうであれば、私としては内心嬉しいことですが、、、
[2006.11.20(Mon) 00:39] 茨城県外の話題Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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乗っちゃったかもしれません by konatu
複雑な建造物はやり甲斐があります。お城の鳥瞰図と言うより、公園と周辺の鳥瞰図って感じになると思います。

周辺も取りこんで by ひづめ
>~公園と周辺の鳥瞰図って感じに~
 お城の立地って重要な要件なので周辺の街の形や地形までも感じ取ることができればより良い図になるはずです。

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リストマーク 大阪城のサイト『FromOSAKA』 

2006年10月28日 ()
 豊臣時代の大坂城は何一つとして残っていない 今の大阪城と豊臣秀吉の作った大坂城とは全く別物だということ広く知ってもらいたい、というのが『FromOSAKA』管理人さんがサイトを立ち上げる切っ掛けだったそうです。サイト内コンテンツ「豊臣秀吉の大坂城」は大阪の街なかを歩き回る「お散歩団」的内容で、そのスタンスに共感!
 私もかつて大阪に住んでいた頃から街歩きは好きだったが、当時は「お城」の視点は持っていなかった。大坂城の惣構・石垣巡り、大坂城代であった土浦土屋家の海防関連史跡、その他にも見たい所があるので久しぶりに行って来ようかなぁ。嫁さんも帰省したいって言ってるし。
[2006.10.28(Sat) 23:00] 茨城県外の話題Trackback(1) | Comments(2) 見る▼
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by tktaku
ご紹介頂きありがとうございます。気分次第で作っているサイトなのでお恥ずかしい限りです。

こちらのブログも拝見させて頂きましたが、とても丁寧に作られていて素晴らしいですね。これからもどうかよろしくお願い致します。

by ひづめ
 逆にお褒めにあずかり光栄です。本来『美浦村お散歩団』のサブコンテンツとして始めたブログですが、更新に使えるエネルギーの配分から近頃はこちらがアクティブになっています。
 誰もが知っている大阪城のどこにでも書いてあることではない情報を得られる貴サイト『FromOSAKA』のようなページは貴重ですね。来週の大阪帰省の時には参考にさせていただきます。

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