夏の終わりの猛烈な暑さの中、平将門の乱、小田氏の祖・八田氏苗字の地?、享徳の乱、長尾景春の乱、小山義政の乱、小山若犬丸の乱、忍藩下級武士尾崎石城の日常めぐりなど、平安時代末から江戸時代末までのよくばりな旅の記録。
8月28日 自宅〜小栗〜鞘堂〜壬生城〜下野薬師寺〜下野国庁〜称念寺〜小山 走行距離120km

小栗の御殿城跡 筑西市小栗の八田は小田氏の祖である八田氏苗字の地ともいわれる。現在の八田集落が小貝川を挟んだ西隣にあるのは、もしかすると流路変更や村落移動があったためかもしれない。明治の迅速測図には小栗の西光寺南西側に方形土塁がはっきりと描かれている。この場所は御殿城跡と伝わり、現在も微高地として残っている(写真)。北側に八田ノ原、南東に小田塚の地名も伝わる。小栗城からは1500mほど離れているので、別の城館と考えて良いだろう。

上三川町の鞘堂地蔵尊 小山義政の乱の前哨戦となる小山義政と宇都宮基綱の激戦・裳原合戦での戦死者を供養し鞘を埋めたという伝承がある。お守りをされている鞘堂自治会の方々の熱意が感じられた。

壬生城(壬生町) 松平信興のもとで土浦城の普請を終えた4代山本菅助晴方が信興の甥輝貞と実の甥(後養子)幸運とともに移った城で、間も無く晴方は死んだため普請は主に幸運(5代十左衛門)によるものと考えられる。城郭のサイズや構造が土浦城に酷似していると感じるのは気のせいだろうか。歴史民俗資料館の北東約150mの住宅地の中に土塁の一部が残っている。

下野薬師寺(下野市) 国家事業で7世紀末創建され、761年には東大寺、筑紫観世音寺と並ぶ戒壇が置かれた。770年に失脚した道鏡の配流地でもある。足利尊氏が全国に安国寺を創建させた際、下野では薬師寺を安国寺に改めた。

薬師寺八幡宮 薬師寺の東隣にある。現在の本殿と拝殿は佐竹右京大夫(秋田藩3代藩主義処)によって再建され、確かに軒唐破風の神紋に五本骨扇に月丸の家紋が嵌め込まれていた。こんなところで佐竹右京大夫の名を見るとは思わなかった。

下野国庁(栃木市) 平将門の乱で、常陸国府の次に襲ったのが下野国府。ただし、『平将門の乱』の著者川尻秋生氏は、一国取るも坂東全部を取るも公儀の責めは同じと武蔵権守興世王に唆されたという『将門記』の記述は創作としている。
称念寺 伝・寒川の尼墓所があると聞いて行ったが別の称念寺だった。
8月29日 小山〜五十子陣〜増国寺〜忍城〜小山 走行距離140km

五十子陣(本庄市) 享徳の乱勃発で古河へ移った公方足利成氏に対峙するために幕府・関東管領上杉氏方が兵站基地として設置した城郭。長尾景春による五十子陣襲撃は、28年におよぶ享徳の乱の膠着状態を打開した潮目ともいえる事件で、景春をバックアップする成氏も景春と対戦する上杉氏も、景春の大暴れとは逆に急速に和睦へ向かうことになる。空中写真を見る限り1960年時点で五十子陣の遺構はほぼ隠滅状態。女堀川南岸の段差が唯一城壁の名残だと思われるが、夏草の繁茂で堤防すら歩けずそれを眺めることすらできなかった。

増国寺 五十子陣の南西方向すぐ近く、というか陣の一部だったと思われる位置にある。享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱の一部始終を新田岩松家の視点から記録した『松陰私語』の著者松陰が中興開山した寺で、位牌があるという。また、墓跡と伝承されるものもあると聞くが見つけられなかった。

忍城の城下町(行田市) 『新訂 幕末下級武士の絵日記』の主人公尾崎石城がくらした下級武士や町人の町を自転車でめぐった。行田・忍公民館で自転車に乗り換え、すぐ南側の一画、石城くんの家があったと思われる界隈の路地を自転車で通り抜けて大蔵寺へ向かう(写真)。大蔵寺も隣の遍照院も今でもそのままの場所にあり、閑静な佇まいを残していた。ここらは毎日石城くんが行ったり来たりしていたところ。公民館近くのVert Cafeで昼食休憩してから、清善寺を抜け、牢屋跡、馬出跡、高札場跡を見ながら町人町の東の外れ長福寺跡(現愛宕神社)までを往復した。土浦同様に行田の町も空襲を受けなかった幸運に加え、強引な道の付け替えが少なく、近世の街路、水路(暗渠含め)、町割が保存状態良くパッケージされた貴重な城下町だと感じる。もう少し近くに住んでいたら何度も行って街中をくまなく自転車で走ってみたい街だ。
8月30日 小山氏城館群めぐり 中久喜城〜神鳥谷曲輪〜鷲城〜祇園城

中久喜城 暑くなる前、朝飯前の5時40分に小山駅東口を出発し約3kmを自転車で往復した。水戸線の城山踏切を渡った南側が本城ではあるがとても入れる状態ではない。畑作業をしにきた方から城を見にきたのかと声をかけられ、しばらく立ち話をする。

神鳥谷曲輪 ひととのや-くるわと読む。朝飯後に自転車で出発。今日は朝のうちに小山駅周辺の城館群を回って暑くなる前に戻ってくる計画。JR線の東側に約100mの土塁の残欠(写真)、西側には平場が残る。

鷲城 鷲神社と周辺の土塁を見る。運動公園側にも見所はあったのかもしれないが、暑いので次へ向かう。
長福城 村社八幡神社北側のやはた公園に城址碑、二中グランド西側に土塁があるらしいが見落とした。
小山評定の場所 小山のアイデンティティは小山評定にあるのかもしれないが、今回はスルー。

祇園城 主要部分は城山公園としてダイナミックな遺構がよく残されているので街中の城址としては申し分ない状態。なのに、曲輪などを示す案内板はステかんで作ってあって驚いた(写真)。鷲城、祇園城、中久喜城は小山氏城跡として29年前(中久喜城は19年前)に国指定史跡に指定されているが、それにしてはいずれの城址もお粗末な整備状況と言わざるを得なかった。このままでは国指定史跡が泣いちゃうでしょうよ。現代小山の愛着は小山氏ではなく徳川氏なのだろうか?
8月31日 小山〜古河〜自宅 走行距離90km

古河公方足利成氏の祈願寺・尊勝院(古河市)

成氏が鶴岡八幡宮から勧請した諏訪八幡宮

福法寺に移築されている古河城二の丸御殿入口だった乾門(写真)などを見ながら旧市街を自転車で数時間回る。車のトラブルがあったため、将門の石井の営所跡や下総国亭跡は廻らずに帰宅した。
最高気温38℃にもなった酷暑の中、行田、小山、古河の街を自転車で走ったが、ペダルを漕いでいると風も吹くので暑さも若干和らいだような気分がした。
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