鎌倉権五郎の墓参り
2020年11月27日 (金)
これも別のところに書いたのと同じ内容ですが、こちらでも紹介しておこうと思います。
先日聴講した、高橋修先生の相模大庭一族に関する講演の中に鎌倉権五郎景正が登場しました。牛久の桂川のほとりに墓があることをかなり以前に郷土史の師匠大竹房雄先生からお聞きして、今度いっしょに見に行きましょうと言いながらついに果たせぬ約束になっていました。ということで、休日の朝のうちに歌舞伎『暫』を見て、午後に現地へ行って来ました。話は逸れますが、この『暫』の配役がすごかった。十二代目團十郎、二代目松緑、七代目梅幸、十六代目仁左衛門、十七代目羽左衛門、六代目歌右衛門、初代辰之助、、、と、卒倒しそうな顔ぶれです。
権五郎が目を洗ったというおみたらしの池
後三年の役で手柄を立てた後、鎌倉へ帰る途中、敵清原方の鳥海弥三郎に右目を射抜かれるが、ひるまず弥三郎を打ち倒し、怪我の手当てをするため見つけたのが「おみたらしの池」。現在は窪地だけが残っています。裏の竹藪の奥に、抜いた矢を納めたという矢の根神社があります。
桂川のほとりにある鎌倉権五郎の墓
目を洗った後、鎌倉へ向かうが力尽きて川へ落ちて果ててしまったということで、その場所に墓が建っています。
位置関係図
鎌倉権五郎の墓と伝わる場所はこの他にも、三重県鈴鹿市矢橋町の大日堂跡、長野県飯田市上郷飯沼の雲彩寺にもあるということです。ここ牛久の場合は、南側を鎌倉街道が通ることから、権五郎伝説が生まれたのかもしれません。
先日聴講した、高橋修先生の相模大庭一族に関する講演の中に鎌倉権五郎景正が登場しました。牛久の桂川のほとりに墓があることをかなり以前に郷土史の師匠大竹房雄先生からお聞きして、今度いっしょに見に行きましょうと言いながらついに果たせぬ約束になっていました。ということで、休日の朝のうちに歌舞伎『暫』を見て、午後に現地へ行って来ました。話は逸れますが、この『暫』の配役がすごかった。十二代目團十郎、二代目松緑、七代目梅幸、十六代目仁左衛門、十七代目羽左衛門、六代目歌右衛門、初代辰之助、、、と、卒倒しそうな顔ぶれです。

後三年の役で手柄を立てた後、鎌倉へ帰る途中、敵清原方の鳥海弥三郎に右目を射抜かれるが、ひるまず弥三郎を打ち倒し、怪我の手当てをするため見つけたのが「おみたらしの池」。現在は窪地だけが残っています。裏の竹藪の奥に、抜いた矢を納めたという矢の根神社があります。

目を洗った後、鎌倉へ向かうが力尽きて川へ落ちて果ててしまったということで、その場所に墓が建っています。

鎌倉権五郎の墓と伝わる場所はこの他にも、三重県鈴鹿市矢橋町の大日堂跡、長野県飯田市上郷飯沼の雲彩寺にもあるということです。ここ牛久の場合は、南側を鎌倉街道が通ることから、権五郎伝説が生まれたのかもしれません。
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