
石川県加賀市の山中温泉は周囲を山に囲まれた名称通りの山の中の温泉町。その温泉町を見下ろす東の山々に山中城、黒谷城およびそれらの支城、砦が点在する。これらの城郭群と町を挟んで対峙するように西側尾根に柴田勝家の付城はある。[右写真と図:ブログ
『左らく天』よりお借りした]
歴史的には、天正8年、朝倉氏の残党と加賀一向一揆勢が拠った黒谷城を攻めるために柴田勝家軍が陣城・付城として構築したと考えられている。
地元の方であれば散歩がてらに見に行ける手頃な城郭遺構だ(茨城から行くには一大決心が必要だが)。

この地図に沿って以下のように歩いてみた。全体的にコンパクトで遺構のダイナミックさには欠けるが、梯郭式(ていかくしき)の郭配置がよく残っている。高井勝己氏の『図説・石川県の城VI 続・加賀の山城』の図で郭の配置を参考にされると良い。

(1)医王寺の脇から水無山への登山道が付いていて(3)の地点まで上がれるが、道は狭いし急だし雨上がりにはちょっと危険な気がする。私は宿泊していた白雲閣の前の道から行った。舗装はしていないが車道と言っても良い歩きやすい道だ。尾根の北側先端部に木の階段があるがそこは昇らず400mほど行った左手の木の階段を上った。

(2)そこを上ればすぐに尾根へ出て、目の前には送電線の鉄塔が立っている。

(3)鉄塔から北へ100mほど歩くとトリムの立て看板がある。右側(東側)に医王寺からの道が合流。

(4)合流地点から北へ50mも歩けばいよいよ堀切と搦手の虎口が見えてくる。階段が付いているから見落とすことは無いはず。

(5)数十メートル北へ歩くとまた堀切。この堀切を越えると一ノ曲輪の平坦地がある。

(6)一ノ曲輪の北西側の虎口を抜けると二ノ曲輪に下りる。二ノ曲輪の東側に何やら石碑が立っている。

(7)さらに二ノ曲輪の北西側の急な虎口を下りると三ノ曲輪に出る。この曲輪は幅が狭く二ノ曲輪の西側から北東側を取り巻く帯曲輪の形態だ。

(8)三ノ曲輪から二ノ曲輪を見ると厳しい切岸になっている。フィールドアスレチックの残骸が残っているが、このような手がかりでも無ければ昇るのはたいへんだろう。

(9)三ノ曲輪から少し行くと大型の堀切があり、ここにもフィールドアスレチックの残骸が。(4)の堀切から(9)の堀切までが城域と考えて良いと思われる。

(10)地元の人が「源氏山」と呼ぶ先端部の高まりはスポーツ広場として整備されかけたようだが現在はここも荒れている。この下にさらに何か防御施設があるのか不明だが、ここに物見くらいは置いただろう。戦闘になれば(9)の堀切で守ることに専念するだろうが、こんな尾根地形では兵を休ませる場所もなかなか無く、案外ここは武者溜だったのかも。そもそも、黒谷城攻撃のための陣城・付城であるから防御性能は低くても致し方ないのだが。

(11)上の(10)にある塚状の構造物で「狼煙台」の立て看板がある。周辺部は風除け土塁のように見えないでも無いが、広場整備の過程で盛られたものかもしれない。それは地元の方がご存知であろう。
次回はぜひ、山中城から黒谷城をぐるり一周してみたいものだ。真夏ではなく、かつ雪の無い季節に。
【参考文献】高井勝己著『図説・石川県の城VI 続・加賀の山城』
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